2014年01月20日

東京に生れて

東京に生れて 芥川 竜之介 

僕に東京の印象を話せというのは無理である。何故といえば、或る印象を得るためには、印象するものと、印象されるものとの間に、或る新鮮さがなければならない。ところが、僕は東京に生れ、東京に育ち、東京に住んでいる。だから、東京に対する神経は麻痺し切っているといってもいい。従って、東京の印象というようなことは、殆んど話すことがないのである。

しかし、ここに幸せなことは、東京は変化の激しい都会である。例えばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあった京橋も、このごろでは、西洋風の橋に変わっている。そのために、東京の印象というようなものが、多少は話せないわけでもない。殊に、僕の如き出不精なものは、それだけ変化にも驚き易いから、幾分か話すたねも殖えるわけである。

住み心地のよくないところ
大体にいえば、今の東京はあまり住み心地のいいところではない。例へば、大川にしても、僕が子供の時分には、まだ百本杭もあつたし、中洲界隈は一面の蘆原だったが、もう今では如何にも都会の川らしい、ごみごみしたものに変わってしまった。殊にこの頃出来るアメリカ式の大建築は、どこにあるのも見にくいもののみである。その外、電車、カフェ、並木、自動車、何れもあまり感心するものはない。

しかし、そういう不愉快な町中でも、一寸した硝窓の光とか、建物の軒蛇腹の影とかに、美しい感じを見出すことが、まあ、僕などはこんなところにも都会らしい美しさを感じなければ外に安住するところはない。

広重の情趣
尤も、今の東京にも、昔の錦絵にあるような景色は全然なくなってしまったわけではない。僕は或る夏の暮れ方、本所の一の橋のそばの共同便所へ入った。その便所を出て見ると、雨がぽつぽつ降り出していた。その時、一の橋とたてがはの川の色とは、そっくり広重だつたといってもいい。しかし、そういう景色に打突かることは、まあ、非常に稀だろうと思う。

郊外の感じ
序でに郊外のことを言えば、概して、郊外は嫌いである。嫌いな理由の第一は、妙に宿場じみ、新開地じみた町の感じや、所謂、武蔵野が見えたりして、安直なセンチメンタリズムが厭なのである。そういうものの僕の住んでいる田端もやはり東京の郊外である。だから、あんまり愉快ではない。
posted by souzoku at 19:51| 日記 | 更新情報をチェックする
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