2014年01月17日

財産相続人(6)


 キャラコさんは、これを機会に、秋作氏のすすめにしたがって、すこしの間ほうぼうを歩いて見ることにきめた。
 箱根町の小さな旅館へ引き移って、旅行の支度をしようと思って町へ買物に出ると、町かどの電柱に、脇坂わきざか部隊の戦傷勇士佐伯軍曹が、本町有志の熱心な懇請こんせいによって、今日午後一時から処女会の講堂で実戦談を行なわれることになったというビラがはりだしてあった。
 蘆あしの間で、ほのぼのと木笛フリュートを吹いていたわびしそうな姿が眼にうかぶ。あの佐伯氏がどんな切実な働きをしたのか聴いてみたくなった。
 会場へ行くと、入口に大きな国旗をつるし、
南京ナンキン光華門突入決死隊の一人、佐伯軍曹軍事講演会々場
 という大きな紙の立看板がたてかけられてあった。
 講堂にはもう大勢の聴衆がつめかけ、演壇の両側には町の役員らしい人たちがズラリとい並んでいる、前列のはしに、佐伯氏が、すこしうつ向き加減になって、茜さんと並んで掛けていた。
 キャラコさんは、うしろから突かれてとうとう演壇から二列目の椅子のところまで押しだされ前の人の背中に隠れるようにして坐っていた。
 定刻になって、司会者のながながしい紹介が終ると、とどろくような拍手が起こり、佐伯氏が茜さんに手をひかれて、演壇あがってきた。
 昂奮しているせいか、いつもより顔の色が悪く、ソワソワして、まるっきり落ち着きがなかった。水差しの水を一杯飲んでふるえるような手つきで唇をぬぐうと、聞きとりにくいほどの低い声ではなしはじめた。
「……南京城攻略戦は、……南京城壁、東南方から開始されまして、……十日の午後五時、脇坂部隊は、工兵部隊の決死的城門破壊と間髪を入れず、光華門の一角を占領……」
 声がとぎれて、何をいっているのか最後のところははっきりと聞えなかった。顔が土気つちけ色になり、ハンカチを出してはしきりに額をぬぐう。倒れるのではないかと思って、キャラコさんは、気が気でなく伸びあがって佐伯氏の顔ばかり見つめていた。
 佐伯氏は演壇に両手をついて首を垂れていたが、しばらくののち、顔をあげると、つぶやくような声でつづけた。
「……午後五時廿分、山際やまぎわ、葛野くずの両勇士麾下きかの決死隊士によって光華門城頭高く日章旗が掲げられますと、伊藤中佐につづいて、……われわれ……」
 壇に手をついて、肩で大息をつき、
「われわれ、……一同……」
 もう、倒れる。……キャラコさんは、夢中になって、われともなく、
「ああ」
 と、大きな声をあげた。
 佐伯氏はギョッとしたように、急に顔をあげてキャラコさんのほうを眺めていたが、聴衆のほうへ向き直ると、とつぜん、
「申し訳ありません。……実に、どうも、不敵千万な……」
 と、いうと、声をあげて演壇の上へ泣き伏してしまった。
 講堂の一同は、何事かと眼をそばだてているうちに、佐伯氏は、錯乱したように演壇を駆けおりると、人波ひとなみをおしわけながら入口から走り出して行ってしまった。

 キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から発動機艇モーター・ボートに乗り、湖尻こじりの桟橋で降りた。
 渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。
 いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。
 佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。
 ……疏水のほうから、木笛フリュートの音がゆるゆると流れてくる。
 空耳そらみみではなかった。佐伯氏がいつも吹く、あのやさしげな曲である。
 キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、小走こばしりしながら、蘆の間へ入ってゆくと、佐伯氏は木笛フリュートを吹いたまま、いつものように、すこし身をすさらせて、キャラコさんの席をつくった。
 キャラコさんは、そのそばへ肱ひじをくッつけて坐った。
 佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった。どうしたのかと思われるほど、いきいきとした顔色をしていた。
 楽しそうに、ゆっくりと木笛フリュートを吹き終えると、男にしてはすこしやさしすぎる、深く澄んだ眼差しでキャラコさんの顔を眺めながら、いった。
「キャラコさん、私はあなたに、ひどい嘘ばかりついていました。どうか、ゆるしてください。……私の弱さのせいもありますが、それはともかく、そうしなければならない深い事情があったのですから……」
 キャラコさんは、黙ってうなずいた。
 佐伯氏は、言葉を切ってから、ちょっと例のないほど率直な口調で、
「……キャラコさん、驚かないでくださいね。私は、昨年の暮れから世間を騒がせていた三万円の拐帯かいたい犯人なんです」
 キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔を眺めていた。自分でもふしぎに思われるほど静かな気持だった。
 佐伯氏は、両膝を抱いて、ゆるゆると身体をゆすりながら、
「こんな話は、お聞きになりたくもないでしょうが、でも、我慢して、もうすこしきいてください。あなたのご親切を、こんなふうに、長い間裏切っていたおわびのためにも、せめて、そうでもさせていただきたいと思うのです」
 キャラコさんは、微笑しながらこたえた。
「あたしにお詫わびになることなんかいりませんけど、それで気がすむのでしたら、どうぞ、なさりたいようになすって、ちょうだい」
 佐伯氏は、湖尻こじりの汽船発着所のほうへチラと眼を走らせてから、
「私は、今あなたが乗っていらしたモーター・ボートで箱根町へ行って自首するつもりなのですから、どっちみち、そんなに長い間お話はできないのです。……もう、時間もありませんから簡単にお話しますが、私も茜も、子供のときから、屈辱や不安や空腹などの鋭い切っ尖さきに絶間なくおびやかされて来た身の上だったのです。……ようやくの思いで小さな実業学校を出て、長い間就職口を探していますと、ある銀行の課長が私を使ってやってもいいというのです。ただし交換条件がある。……就職させてやるかわりに、茜と秘密の結婚をさせろというのです」
 キャラコさんは、思わず眼を閉じた。キャラコさんのような人生の経験の浅いものにも、それからどんな悲劇が起きたのか、これだけ聞くともうなにもかもわかるような気がした。
 佐伯氏は、眼に見えぬほど顔を赤らめて、
「……どれほど卑屈になじんでいたとはいえ、さすがに、そんなことまでする気にはなれませんでしたが、茜が泣いて説得するので、死んだ気になって承知しました。……そうさえすれば、二人とも、長い貧乏の中から浮びあがれるのですから。……ところが、それもいつまでもつづきませんでした。茜はたった二年で捨てられてしまい、そのあげく、こんどは私を解雇するといい出しました。……私は、貧乏だというだけの理由で、長い間、底知れぬ悪意や不親切や迫害に駆りたてられて、すっかりひねくれてしまい、人生とは、いつか復讐してやる値打のあるものだといつもそう考えていましたので、課長のひどい仕打ちにしかえしをするために、その日、支店へ送るはずの三万円の現金を持ち出してやりました。せめて、それくらいのことをしてやらなければ息がつまりそうだったのです。……それから不埓ふらちにも傷痍しょうい軍人になりすまして、茜と二人でほうぼう逃げ廻りました。やって見ると、思いがけなく困難な仕事でしたが、私たちは元気をなくしませんでした。自分のしたことが悪い事だとはどうしても考えられなかったからです。……愚かな話ですが、ざまア見ろとさえ思っていました。そんなにも、心がねじけていたのです」
 そういって、おだやかな微笑をうかべながらキャラコさんの眼を見かえし、
「……ところで、ここであなたにお目にかかるようになってから、とつぜん、私の前に新しい世界がひらけることになりました。……こんな親切な世界もあるのかと、呆気あっけにとられてしまったのです。……生まれたときから、ひとの不親切や、意地悪や、悪意ばかり眺めてきた眼には、とても真実なこととは考えられないのでした。……キャラコさん、あなたは、私の眼がかならず癒なおると茜におっしゃったそうですね。……実際、その通りでした。……なにも、ドクトルなどを呼んでくださる必要はなかったのです。……あなたの手で、ちゃんと私の視力をとり戻してくださいましたから。……つまり、心の視力をね。……それから、たびたびここであなたと逢って、人間の親切というものを深く心にしめるにつけ、自分のしていることがいかにも果敢はかなく思われてきて、新しい出発の動機をつくるために自首するといい出しました。……茜は、私の決心がにぶったのだと思って、いろいろな方法でそれを阻止しようとしました。あなたに逢えないようにしたのもそのためです。……しかし、どうか、茜をせめないでください。間違っていようとも、あれは、あれなりの真情で私を愛しているのですから。……嘘だったということは、今日はじめてわかりましたが、茜から、あなたが東京へ行かれたと聞くと、私は闇夜やみよの中でとつぜん光明を失ったような気持になって、また決心がにぶり、茜にすすめられて、今日のような不埓ふらちなまねをいたしましたが、でも、もう大丈夫です。私の決心はぐらつきません。贖罪しょくざいをして新しく生まれ変わったら、その身装みなりをお目にかけに行きます。……キャラコさん、私はあなたにひどい嘘をつきましたが、どうぞ、ゆるしてください。あなたにだけは、拐帯かいたい犯人だということを知られたくなかった。ここで語り合ったあの姿で、あなたの記憶にとどめて置きたかったからです」
 プツンと言葉を切ると、蘆の間でゆるゆると身体を起こしながら、
「……さあ、ずいぶんしゃべった。……では、そろそろ出かけることにしましょう。……いつか、私がそういいましたね。なんでもなくしてくださったあなたの親切が、私にどんなたいへんな影響をあたえたか、いつか必ずわかるときが来るって。……つまり、これが、その結果レジュルタです」

 キャラコさんは、発動機艇モーター・ボートの桟橋まで佐伯氏を送って行った。
 発動機艇モーター・ボートは渚を離れた。
 佐伯氏は船尾に坐って、ゆるゆると木笛フリュートを吹いている。
 岸では、キャラコさんが長い蘆を振ってわかれの挨拶をする。
 発動機艇モーター・ボートの影が見えなくなっても、木笛フリュートの音はまだきこえていた。
 次の日のひるごろ、キャラコさんと茜さんは、長尾ながお峠の頂上に立っていた。眼のしたに、蘆あしの湖こが、古鏡のように、にぶく光っている。
 キャラコさんは、ここから御殿場ごてんばのほうへくだり、茜さんは、仙石原せんごくばらのほうへおりて、それから東京へ職業しごとをさがしに行くのである。
 いよいよ別れる時がくると、茜さんが、いった。
「兄は、ほんとうにあなたを愛していたのではないでしょうか。あなたが立上たてがみ氏を呼んだと聞くとその夜、兄は夜半よなかにそっと起きあがって、稀塩酸きえんさんでじぶんの眼をつぶそうとしているのです。必死なようすでしたわ。……あなたにだけは嘘つきだと思われたくなかったのでしょう。……これだけ申しあげたら、この間、あたしがなぜあんなひどいことをいったか、わかってくださるでしょう。……ほんとうに、ごめんなさいね。……でも、あたしにすれば、あなたより、やはり兄の眼のほうが大切だったのですから……」
 二人は、右と左にわかれた。互いの姿が見えなくなるまで、手をふりながら。

不動産の相続登記



posted by souzoku at 18:52| 日記 | 更新情報をチェックする
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