2014年01月17日

財産相続人(4)

 キャラコさんは、たったひとつ佐伯氏にたずねたいことがある。佐伯氏の眼が本当に絶望なのかどうかということである。今までいく十度ど、口さきまで出かかったか知れないが、そんなことにふれてはいけないのだと思って、しんぼうしていたのだった。しかし、今日はどうしても切り出してみようと決心した。
 秋作氏の親友で、キャラコさんを本当の妹のようにかあいがってくれる立上たてがみ氏という若い博士が、ついこのころ、ミュンヘンから帰って来た。
 秋作氏は、立上のやつ、独逸ドイツから近代眼科学の精髄せいずいをかっぱらって来やがったそうだ。と、恐悦きょうえつしながらキャラコさんに話してきかせた。もし、佐伯氏にその気があるなら、いちどぜひ立上氏に診みさせたいと思うのである。
 キャラコさんが、蘆あしをわけて疏水そすいのほうへおりてゆくと、いつものところに佐伯氏が待っていて、きょうは、たいへんおそかったと、いった。キャラコさんといっしょにいることだけが、このごろの楽しみになっているふうだった。
 見ると、佐伯氏の膝ひざの上に英語の本が一冊のっている。キャラコさんが、おどろいて、たずねた。
「あなた、本がお読みになれるの」
 佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、
「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして撫なで廻しながら、この中に、あんなすぐれた事が書いてあるのかと感慨にふけるのです。……こうして頁ページの上をさすっていると、いろいろな文章がつぎつぎ記憶の中によみがえって来て、ちょうど眼で読んでいるような気持になれるのです。……未練みれんだと思うかも知れないけれど」
 このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、いかにも心ない仕業しわざだと思ったが、死んだ気になって、切り出してみた。
「佐伯さん、あたくし、たったひとつ、おたずねしたいことがありますの」
 佐伯氏は、ビクッとしたように、キャラコさんのほうへ顔をふり向けて、
「あらたまって、どうしたんです。……ききたいって、どんなこと?」
「あなたのお気にさわることなんですから、はじめに、おわびしておきますわ。……あたしがおたずねしたいのは、あなたの眼はどうしても絶望なのかどうかということなの。……まだ、いくぶんでも希望があるのでしょうか」
 キャラコさんが、そうたずねると、佐伯氏は、急にキュッと頬ほほの肉を痙攣ひきつらせ、なんともいえない暗い顔をしておし黙ってしまった。
 キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。うなだれて、唇だけを動かして、ごめんなさい、とつぶやいた。
 佐伯氏は、ふいに、渋い微笑をうかべて、
「いま、ごめんなさい、といいましたね。よく聞えましたよ。……あやまることなんかいりません、なんでもないことです。……私が眼のことに触れたがらないのは、じつは、どうしてもあきらめきれないことがあるからなんです。…私のは、単性視神経萎縮アトロフィア・ネルヴィ・オプチジという厄介やっかいな眼病で、手榴弾しゅりゅうだんの破片で頭蓋底を骨折したために、起こったもので、日本では治癒ちゆできませんが、ミュンヘン大学のヘルムショルツ博士のところへ行けば必ず癒なおしてもらえるあてがあるのです。……しかし、私にはそんな金もないし……」
 ここまでいいかけると、とつぜんいらいらした口調で、
「もう、よしましょう。この話は」
 と、クルリとキャラコさんに背中を向けてしまった。
 キャラコさんは、宿へ帰ると、秋作氏の気付きづけにして、ヘルムショルツ先生の高弟に宛てて長い長い手紙を書いた。
 ……そういうわけですから、この手紙を見次第、鞄かばんを持って飛んで来て、ちょうだい。これは、あたしの、めいれいよ。と結んだ。日記には、こんなふうに書きつけた。

キャラコの信念
佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!


 一日おいて次の日、立上氏から、ミヨウゴニチアサユクという電報が来た。
 キャラコさんは、その電報を持っていつものところへ駆けて行った。
 木笛フリュートは蘆の中に置いてあるが、佐伯氏の姿は見えない。四時ごろまで待っていたがやって来ない。もしや水ぎわにでもいるのかとそのほうを見廻したが、渚なぎさには人の影らしいものもなかった。
 キャラコさんは手帳の紙に、

 佐伯さま。明後日あさってのあさ、ここへ、ヘルムショルツ先生の高弟が来ます。どうぞ、あなたの眼をふたつ貸してちょうだい。

 と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(茜あかねさま、これを読んでさしあげてくださいませ)と、書いて、それを木笛フリュートに結びつけた。

 それから、三十分ほどすると、疏水そすいの向う側から佐伯氏がやって来た。
 木笛フリュートのあるあたりに顔を向けて、ぼんやりと立っていたが、ツと手を伸ばして手紙をほどきとるとむこうを向いて、立ったままでそれを読み出した。
 しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。
 佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。
posted by souzoku at 18:51| 日記 | 更新情報をチェックする
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