2014年01月17日

財産相続人(2)

佐伯氏は南京ナンキンの戦争で失明した名誉ある傷痍しょうい軍人である。
傷痍軍人といっても、衛戍えいじゅ病院にいるのではないから、あの白い病衣を着ているわけではない。背に帯のついたスマートな大外套ガーズ・コートを着て、アッシュのステッキをついて歩いている。

顎あごはいつもきれいに剃ってあるし、髪にはキチンと櫛目くしめがはいっている。散歩に出ると、野の花を襟さしたりして帰ってくる。どこにも軍人らしいいかついところがないので、キャラコさんは、この優雅エレガントな盲目の青年が名誉ある傷痍兵士だとは、まるっきり気がつかなかった。

そういえば、なるほど顔色は陽にやけて黒く、歩きぶりにもどこか軍隊式なところが残っている。肩も腰も頑丈で、この肉体がどんな刻苦こっくに耐えて来たか充分に察しられるが、全体の感じはどことなく弱々しく、挙動もたいへんに神経質だった。

黒い大きな眼鏡で顔が半分以上隠されているが、鼻も口もきりっとしまっていて、学者とでもいったような、奥深い、理智的な印象を与えるのに、声は低く細く、いつもふるえるような調子をおびていた。極めて理性的なものと、極めて感情的なものと、まるっきり矛盾した二つの性格がひとつの肉体の中におさまっているような感じだった。

佐伯氏の兄妹は五日ほど前の夕方ここへやってきた。宿のひとのはなしでは、佐伯氏はここへ点字の勉強に来たのだそうだった。まだ春が浅く、それにこんな淋しいところなので湯治とうじの客もすくなく、静かに勉強するにはうってつけの場所だった。

佐伯氏は、茜あかねさんという、すごいような端麗たんれいな顔をした妹さんと二人で別棟べつむねの離屋はなれを借り切って、二階と階下したに別れて住んでいる。

どちらも静かなひとたちで、ときどき、佐伯氏に本を読んできかせるらしい茜さんの澄んだきれいな声がきこえるほか、一日じゅう、ひっそりとくらしていて、部屋の障子しょうじがひらかれることさえごくまれだった。

佐伯さんは、まいにち三時ごろになると散歩に出て、湖のそばでフリュートを吹く。まだ習いはじめだとみえ、とぎれとぎれで、なんとなく悲しげだった。茜さんのほうは、めったに部屋からも出て来ない。たまに廊下などですれ違うと、軽かるく目礼して、眼を伏せて急ぎ足で行ってしまう。不幸の重荷を背負っているような薄倖はっこうな感じのひとだった。

キャラコさんは、はじめての日、湖畔から宿のほうへ曲り込むわかれみちのところで佐伯氏に逢った。

佐伯氏は、道からそれた蘆あしの繁みの中へ踏み込んで、途方に暮れたようすで立っていた。

キャラコさんは、すぐ、眼の悪いひとなのだと気がついて、佐伯氏をていねいに道まで連れ戻し、そのままそろそろと宿のほうへ手をひいて行こうとすると、佐伯氏は、とつぜん、邪険な仕方でキャラコさんの手をふり切って、毒々しい口調で叫んだ。
「いいから、独りで歩かしてください。これから毎日散歩に来なくてはならないのだから、道に馴れておこうと思ってやって来たところなんです。おせっかいはごめんだ」
 黒い眼鏡だけのような顔を、キャラコさんのほうへふり向けると、
「……もっとも、一生私の手をひいて下さるというなら別ですがね。たった一度くらい世話してもらったってなんにもなりゃしない」

そして、空うそぶくようにして、は、は、は、と笑った。

すこし、ひどいいい方だったが、キャラコさんは気にもかけずに、「でも、ここはひどい石ころ道で、とても危ないのよ。……それに、陽もくれて来ましたし……」

佐伯氏は、ふん、と鼻を鳴らして、「陽も暮れて来たし……か。私にとってはどっちみち同じこってすよ、お嬢さん。はじめっからまっ暗なんだから。……まあ、放っておいてください。私はめくらだが、あまりめくら扱いにされるのは好きじゃないんです」

キャラコさんは、すこし悲しくなってきた。しかし、自分があまりうるさくしたのがいけなかったのだと思いかえして、いわれた通りに佐伯氏の腕から手をのけた。

佐伯氏はステッキで道をさぐりながら、危なっかしい足つきで歩いてゆく。道がわからなくなると、癇癪かんしゃくを起こしたようにどこでもかまわず踏み込んで行った。

キャラコさんは心配でたまらないので、すこしあとからついて行くと、佐伯氏はキャラコさんのほうをふりかえって、
「君はどこか別な道から帰れないの。うるさいから、ついてこないでくれたまえ」
 と、イライラした声で、投げつけるように叫んだ。
 キャラコさんは、
「ええ」

と、素直にそう返事をして、しばらく立ちどまってから、ずっと離れて見え隠れに宿の入口まで送って行った。

宿へかえると、キャラコさんは、机に向って日記を書きはじめた。

 キャラコの失敗
 私は不幸なひとを見ると、すぐ感動してしまう。
きょう、私は夢中になりすぎて、不幸なひとをいら立たせた。
他人の不幸に感情だけで同感するということ。――ことに、衝動的な親切などは何の意味もなさない。私は、私の薄っぺらな同情を佐伯氏に見ぬかれてしまった。
それは、……

ここで、急にペンが動かなくなった。
キャラコさんは、にがにがしい顔をして長い間ペン軸を噛かんでいたが、とうとう、思い切ったように、そのあとに、こんな風に書き足した。

つまり、私が、おっちょこちょいだから……。なってないわね。……よく覚えておきなさい。他人ひとに同情するなどというのは、けっして容易たやすいわざでないということを。いい加減な同情などは、これからつつしまなくては。

キャラコさんは、寝床へはいってから、いつまでも大きな眼をあいて天井をながめていた。
気持が沈んで、ひどくメランコリックになっている。なんだかもの足りない。あの不幸なひとにやさしくしてあげることができないというのは、なんというさびしいことだろう。
アッシュのステッキをついて、そろそろと足さぐりして歩いている佐伯氏のわびしそうな姿が眼にうかぶ。
佐伯氏は、石ころだらけのゆるい坂道を虫のはうように歩いて行く。杖のさきで長い間道の上をたたく。いよいよ大丈夫だと見極めがつくと、おずおずと右足を伸ばす。また杖で道をさぐる。それから、ようやく左足が出てゆく。
なんて、はかばかしくないんだろうと思って、キャラコさんのほうで、ジリジリしてくる。がっかりしたような声をだす。
「とても、見てはいられないわ」
 佐伯氏は、まだのそのそやっている。あまりひどい骨折りなので、すぐ疲れてしまうらしい。四、五歩あるいては立ちどまって汗をふく。それからまた元気を出してやりだす。
 ところで、休んでいるうちに方角がわからなくなったとみえて、道を斜はすに、大きな松の木の根が出ている窪くぼみのほうへどんどん歩いてゆく。危ない危ないと思っているうちに、案の定、穴ぼこの中へ右足を踏みこんでえらい勢いでひっくりかえる……。
 キャラコさんの胸が劇はげしくおどる。思わず大きな声をだす。
「あら、危ない! ……ほうら、とうとう落っこっちゃった」
 自分の声ではッと気がついて赤い顔をする。てれくさくなって、枕の上で頭をまわす。
 キャラコさんの耳に、毒々しい佐伯氏の声がきこえる。
(うるさいから、放っておいてくれたまえ! めくら扱いにされるのはごめんだよ)
 たしかに、ひどすぎるいい方だ。辛辣しんらつすぎる。ひねくれている。あまり礼儀しらずだ。
 キャラコさんは、こんな事をかんがえながら、一方では、穴ぼこのなかからやさしく佐伯氏を助け起こしている。
 どんなに腹を立てようと思っても、どうしても思うようにならない。
 キャラコさんは、幻想を払いのけるために、えへん、と大きな咳払いをする。
「こんなことじゃしようがないわ」
 自分があまり感傷的センチメンタルなのが不愉快になってきた。
「むやみにひとに同情しやすくて困るわね。だから、みなあたしのことを馬鹿だと思っている。もう、十九にもなったんだから、そろそろこんな性質にうち勝たなくては!」
 キャラコさんは、額に皺しわをよせむずかしい顔をしながら、決心する。
「ともかく、もっと強い意志を持つことだわ! あんな意地の悪いひとなど放っておけばいい」
 これで、ようやく安心する。枕を置き直して眼をつぶる。
 間もなく眠くなってきた。
 キャラコさんは、うつらうつらした半睡はんすいの中で、あす早く起きて、佐伯氏が散歩する道の石ころをみな取りのけておこうとかんがえていた……。
posted by souzoku at 18:49| 日記 | 更新情報をチェックする
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